第25代松浦隆信公(道可)の長男として、1549年生まれました。
幼いときから勇ましく、19歳で肥前の守に任命されました。
当時、隣国大村と領地のことで、いざこざがたえず、鎮信はキリシタン大名・大村純忠を攻めました。
1586年純忠は和平を願い、息女(教命メンシア)と鎮信の子息久信との婚約を約束して和議を結びました。
鎮信は秀吉より壱岐国を含め63200石を領しました。
また文禄・慶長の役には、朝鮮に出陣し、在陣七年間大いに活躍したと伝えられます。
1599年には、亀岡に近世城郭【日の岳城】を築気、豊臣から徳川に変わった1601年、家康により旧領を認められ、平戸藩初代藩主になりました。
その後、オランダやイギリスとの貿易開始に努めました。
鎮信は1614年66歳で死没し、墓は真言宗最教寺の境内にあります。
松浦家28代宗陽隆信公は第2代藩主松浦久信公の長男。
母は大村のキリシタン大名大村純忠の娘(松東院)で、1591年に生まれました。
幼少時、父によって受洗しましたが、その後江戸幕府の禁教令により棄教しています。
1603年12歳の時祖父・松浦鎮信(法印)の後見で家督を相続しました。
この時代は、平戸藩の歴史上最も変化の激しい時代で、オランダ・イギリス・中国など外国貿易に大変な賑わいを見せる時代でした。
宗陽公は1637年に没し、墓地は正宗寺の境内の中にあります。
宗陽公のお墓の隣に母・メンシア(松東院)のお墓も並んで建っています。

1760年江戸浅草の平戸藩邸で生まれ名は清といっていました。
静山(せいざん)は隠居後の号です。
清は1775年16歳で、61700石の平戸藩主になりました。
1779年平戸藩の学校、維新館(いしんかん)を開校し、藩士子弟の教育に力を注ぎ優秀な人材を多数誕生させました。
また、殖産にも力を注ぎ、農業政策を強化し、農民に対しても質素倹約守らせ藩の財政を安定させた。
文学、武芸に関する書物を数多くだし、なかでも、278冊にも及ぶ【甲子夜話(かっしやわ】は、江戸時代を代表する随筆です。
武芸は剣術に秀で【心形刀流】の達人として、天下にその名を知られていました。
1841年82歳で江戸の下屋敷で亡くなりました。
1791年松浦清(静山公)の三男として、平戸城で誕生した。松浦家35代熈公は1806年16歳で10代平戸藩主になり、1808年老中松平定信の娘秦姫(しんひめ)と結婚しました。
熈公は連日巡見を続け、各地に新田開発や堤を築く等領民の生活安定に努めました。1812年伊能忠敬(いのうただたか)一行は、日本地図作製のため平戸領内を測量に訪れ、熈公は全面的に協力した。
1841年隠居後は平戸城に居座り、神仏を敬い、先祖を尊びました。
また、文学にも秀で、中でも、86巻の【亀岡随筆】は松浦家の歴史を研究する上で大変貴重なものです。
熈公は1867年77歳で死没しました。
1622年江戸の藩邸で生まれ、幼名を千代鶴丸と言い、初めの名前を重信、のちに鎮信(しげのぶ)と改めました。
1689年の隠居後、【しげのぶ】を音読みの【ちんしん】と称し1635年従五位下・肥前の守に任命され、1637年に16歳で、平戸藩の第4代藩主になりました。
当時平戸藩はオランダと盛んに貿易をおこなっており、日本各地から貿易商人が多数集まり、平戸は大変な賑わいでした。
しかし、1641年、幕府の命によりオランダ商館は取り壊され、長崎の出島に移転され、事実上平戸は、外国貿易の市場を失い、藩の財政は大変苦しくなった。
鎮信は藩の財政立て直しに領内各地に新田、新畑の開拓をすすめた。
一方、窯業、捕鯨業などの殖産も奨励した。 また、家訓(家の法律)や各種の法令を制定し質素倹約を実行しながら、文教や武道を盛んに取り入れ兵法学者山鹿素行とは親しく素行の学問も導入した。
詩歌など芸術性も大変秀でており、特に茶の湯に力を注ぎ、武家茶【鎮信流(ちんしんりゅう)】を創始しました。
現在も各地で鎮信流の茶の湯がたのしめます。
鎮信公は1703年82歳で江戸で死没しました。

生年は不明。
平戸松浦家21代当主です。
1434年平戸の白狐山城の戦いで紐差、津吉を中心とした連合軍の攻撃で義(よろし)の父勝(すぐる)、兄芳(よし)が戦死、義はこの恨みを晴らそうと、紐差城を陥れ下方地域を領土にしました。
1435年京都に登り官を得ようとしたが、なかなか思いが果たせませんでした。
1437年赤烏帽子(あかえぼし)姿で目立つようにし、ようやく将軍足利義教(あしかがよしのり)に謁見する機会がめぐまれました。
謁見の日、将軍の愛玩している猿が義を見て怖がる様子に、義が非凡の武士であることを察し肥前の守に任命した。
将軍は義の優雅な振る舞いなどを大変気に入り、絵師に命じて赤烏帽子姿の肖像画を描かせ、掛け軸の上部に自分の花押を書き記しました。
1441年足利義教は、暗殺され義は薙髪(ちはつ=頭を丸めること)して天そう義と号し、1443年平戸に普門寺を建立して、義教将軍の木像を安置して冥福を祈りました。
そして、義は1470年死没いたしました。

平戸を根拠地として活動した中国人海商鄭芝龍(ていしりゅう)を父に、平戸川内の田川マツを母に1624年7月14日平戸で生まれました。
幼名福松と呼ばれていた。
鄭成功は母マツが千里が浜で貝拾いの時、にわかに産気づき大石にもたれて生まれたと伝えられています。
後に芝龍は明朝の招きで帰順し、鄭成功も7歳で単身渡海すると、15歳で南京大学に入り、21歳の時明王から国姓である、朱姓を与えられ、人々は彼を国性爺(こくせんや)と敬称されました。
しかし、清が起こり明王が危機に瀕した時、父は清に降伏したが、母は泉州城内で自害した。
鄭成功は抗清復明の闘志は更に増し、鄭成功は拠点を台湾に置くため、当時台湾を占拠中のオランダと戦い勝利すると、台湾に政府を置き、法律や、開拓を行い民の信頼も大きく勝ち取りました。
しかし、鄭成功は1662年、熱病のため39歳の若さで亡くなりました。
現在川内町にある鄭成功の居宅跡には、鄭成功が植えたと伝えられるなぎの木がのこり、隣接する観音堂には中国で船の守り神とされる馬祖像が祭られています。
ウイリアム・アダムスは1564年イギリスで生まれ、12歳で造船技術を学び、その後造船、天文学、航海術など学んだ。
アダムスは25歳で海軍入隊、艦長就任の後、貿易会社勤めた。
1598年(慶長3年)5隻(デ・リーフデ号他4隻)の船でアジアに向けて出港し、アダムスはデ・リーフデ号の航海長として乗り込みました。
航路は、イギリスを経由し、アフリカ大陸の西岸から南アメリカのマゼラン海峡を超えて太平洋を横断、途中悪天候と病気に悩まされながら、1600年4月19日、日本の豊後国臼杵に辿り着いたのが、デ・リーフデ号ただ1隻だけで生存者は24名でした。
アダムスは、大阪城で徳川家康に会い、今回の渡航の目的や世界情勢について話しました。
アダムスは家康の信任を受け、相模国三浦郡逸見村に領地を得て旗本となってします。
アダムスと平戸の関係は、記録では1611年(慶長16年)オランダ商館長ジャックス・スペックスが家康に謁見後、平戸に戻るときに同行しています。
その後、アダムスはイギリス商館建設の時も幕府との仲介等もしています。
アダムス自身最初オランダ商館に勤務し、のちに独立して自ら貿易家として平戸を中心に活躍しています。
1620年アダムスは病気で(56歳)亡くなりました。
埋葬地は平戸港を見下ろす小高い丘の遠見という場所に埋葬されましたがどのようにして埋葬された詳しい事はわかっていません。
五峰王直は中国安徽省(あんきしょう)生まれですが、生年ははっきりしません。
後期倭寇の時代に活動した海商または海賊の首領といわれ日本では五島や平戸に来航して、日中の密貿易を行いました。
王直は、1542年(天文11年)平戸に来航し、25代松浦隆信(道可)によって優遇され、勝尾岳の麓に中国風の屋敷をかまえ、多くの手下を従えて平戸に居住しました。
王直は徽王(きおう)とも称し、日本の戦国大名たちとも取引を行っていたようです。
中国では浙江省(せっこうしょう)れき港を本拠として東シナ海を中心に活動していました。
1557年明浙江省の提督に捕らわれ2年後処刑されています。
栄西(1141年~1215年)は日本の禅宗(臨済宗)の開祖です。
栄西は岡山市にある吉備津神社の神職の子として生まれ、1154年14歳で比叡山延暦寺に入り天台宗を学びます。
1168年南宋(今の中国)初めて留学しました。
そこで栄西は【禅】の重要性を知ったといわれてます。
1187年再び入宋し、天台山万年寺の高僧、虚庵懐じょう(きあんえじょう)より臨済宗の嗣法の印可をうけました。
帰国の折、栄西は茶の種子を持ち帰り、平戸の葦の浦(今の古江湾)に着船し、(現木引町千光寺の処)この時、戸部侍郎清貴が栄西の為に、禅の道場として【冨春庵】を設け、日本最初の禅院となったのです。
今は、冨春庵はありませんが、座禅石は残っています。
周りに栄西が植えた小さな茶畑があり、これが日本最初のお茶の発祥地と言われております。
その後、栄西は、(喫茶養生記)を発表しお茶の効用や抹茶の飲用法を伝え、茶道文化に大きな足跡をのこしました
ザビエルは1506年スペインで生まれました。
1534年【イエズス会】を創立し、その後ベネチアで司祭になり、ローマで活躍しました。
1540年ポルトガル国王の依頼により教皇パウロ3世の使節として東洋に派遣されゴア・インド・マラッカを経由し、マラッカで鹿児島出身のアンジロウと出会い日本布教を志します。
1549年鹿児島に上陸、島津貴久公に謁見し領内で布教活動を行いますが、僧侶と争いが絶えず、貴久公は禁教を決定した。
1550年ポルトガル船が平戸に入港したのを聞きつけ、急ぎ平戸を訪れました。
領主松浦隆信<道可>(どうか)の許可を得て平戸での布教を行っています。
その後、ザビエルは、布教の拠点を山口や豊後に移し、今後の事を、トルレス神父に託して1551年豊後港から離日、1552年中国で病没しています。
スペックスは1585年頃オランダで生まれた。
オランダはスペインから独立を果たすと、1598年アジアへ進出するため艦隊を送りました。
1600年平戸に漂着したウイリアム・アダムスが活躍し、1605年松浦(法印)鎮信公がデ・リーフデ号の乗組員をマレー半島のパタニに送還したのをきっかけに、1609年平戸にオランダ商館が開かれる事になった。
スペックスは初代平戸オランダ商館長に任命されています。
1628年には、東インド会社評議委員となりバタビアに赴任、翌年バタビア総督に任命された。
この頃、台湾において日本の貿易船と台湾商館とのトラブルがあり、タイオワン事件が起こり、一時オランダ貿易は中止された。
スペックスはオランダ側の責任として台湾長官ノイツを日本に送り、貿易は再開された。
1632年スペックスは総督を辞任しオランダに帰国し、1645年頃没しました。
コックスは、1566年イギリスに生まれ、1600年イギリス東インド会社に入り、1613年司令官ジョン・セーリスと共にグローブ号で平戸に入港しました。
セーリスはウイリアム・アダムスを仲介者として駿府の家康、江戸の秀忠と会い通商の許可を受けた。
その年、平戸イギリス商館が設置されるとコックスは初代イギリス商館長に任命されました。
商館運営も順調に始まったかに見えたが、貿易も、先行するオランダ貿易になかなか追いつけず、その上1616年幕府よりオランダ・イギリスの貿易を平戸・長崎に制限され、コックスはいよいよ苦しい経営をせざるをえなくなった。
時折、オランダともトラブルはあったが、和解し、協力してスペイン・ポルトガル貿易に対抗したが、莫大な貸付金の回収ができず、競争力の無いイギリス貿易は日本からの撤退を余儀なくされ、1623年平戸商館は閉鎖されました。
コックスは1615年ウイリアム・アダムスから甘藷が贈られ川内の畑で日本最初の甘藷栽培をおこないました。
その畑は現在も残っています。
佐内は平戸藩士葉山家5代葉山 高の子息として誕生しました。
父高は藩主松浦 清(静山公)に仕えて20年間江戸に住んでおり、佐内は17歳の時、江戸に出て初めて父と会ったと言われています。
佐内は、父の影響で佐藤一齋の門に入り、陽明学を学び、また山鹿流の兵学も極めました。
そして葉山家第6代当主として家督を継いだのです。
松浦家第36代当主曜(てらす)公に重用され藩校維新館の学頭に任命され、その後、藩主息の師範にも任命されました。
1835年大阪詰の重職につき、1837年大塩平八郎の乱の時、藩邸を死守したといいます。
1850年当時21歳の吉田松陰が佐内の屋敷を訪問し、佐内の懇切丁寧な対応に後日松陰は、その人格と識見を敬慕されたといいます。
佐内は1864年平戸にて死没しました。
松陰は1830年長州藩士・杉家の次男として生まれました。
その後、山鹿流兵学師範である吉田大介の養子となり兵学者としての第一歩を踏み出す事になります。
松陰は、諸外国の事情研究と日本における新たな防衛対策の必要性を感じ遊学の旅にでかけ、その最初が平戸でした。
松陰は、1850年萩を立ち、途中長崎に6日間滞在した後、平戸に到着しました。
平戸には52日間滞在し、勉学に明け暮れる日々を過ごし、その間、葉山佐内・山鹿萬介他、藩士宅を訪問していろいろな教えを受けています。
松陰は、葉山佐内を人物的にも学術的にも大変尊敬し、よく葉山邸に通い多数の蔵書を借り受け、滞在中、80冊余り読破しております。
1857年には、松下村塾を開塾し、多数の明治の功臣を育てますが、安政の大獄により投獄され、1859年斬刑に処され、短い人生を終えました。
平戸藩第9代藩主松浦清公(静山)の11女として平戸にうまれました。
母は側室の森氏。幼名は千代姫、後に愛姫と改める。
姉の夫である園基茂の養女として中山忠能に嫁し、2男1女(忠愛・忠光・慶子)に恵まれました。
慶子(よしこ)が孝明天皇に仕え、やがて皇子祐宮(後の明治天皇)を産むと4歳時までその養育を任されました 後 明治天皇の皇子明宮嘉仁親王の養育にもあたっておりました。